器が大きいが意味するもの
器が大きいですね、というのは誉め言葉として捉えています。
器が小さいと言われれば、何だかいい気はしないものです。
出来れば、器が大きい、を目指したいところですが、狙ってなれるものでもなく。
自分にとっての、器が大きい、とはどういったものなのか。
改めて考えてみました。
許容量が大きい
この人、器が大きいな、と思うのはどんな時か。
イメージで言うと、怒らないというのが一つのキーワードかなと。
失礼なことをされた、指示を無視された、など自分にとってマイナスなことが起こった時には、それを怒りに変えて発散するという場合があります。
それがダメというわけではなく、そうしないと自分自身にダメージが残ってしまうので仕方がない部分もあるかなと。
自分にとってのマイナスの先に、相手にとってのマイナスも見えて、それを回避するために怒るということもあるでしょう。
例えば、親が、遊んでばかりいる子供に向かって、勉強しなさいと怒ってしまう場合。
一見すると、親にとってマイナスなことが起こっているわけではないように見えます。
しかしながら、多くの場合、そこに至るまでの過程で、優しく勉強しないでいいの?という確認が入っているもの。
それに対して、子供が後でやるといってやらなかったり、もうやったと嘘を付いてしまったり、誤魔化して無視したりということが続いている。
そうすると、親も一人の人間なので、自分の存在をないがしろにされたとして、イラっとしたり、ムカッとすることもあります。
それをそのまま怒りとして、感情を子供にぶつけてしまうこともあるかもしれません。
ひと呼吸置いて、冷静になってから、これが子供にとって将来マイナスになるかもしれないと再確認して、怒るというスイッチを入れるということもあるでしょう。
こうした怒るという行為を飲み込んで、自分の中に貯めておくということも出来ます。
ちょっとしたことで自分の思うようになっていないことがあって、特に大きな支障がなかれば、何も言わない。
事態が好転するまでじっくり待つということもあります。
受け止める許容量が大きいということでしょうか。
細かいことをガミガミ言わないというのは、マイナスを自分の中に押し込めている状態でもあるので、その人以外に影響が及ばないことがほとんどです。
そうすると、結果的に、その人だけが犠牲になって、他の人を守っているという状態になり、器が大きいと称賛される。
相手のために怒るべきことも言わないというのは、支障があるかもしれませんが、言うべきタイミングというのは難しいもので、言わないことで相手の自主性を引き出せたというような結果オーライの場合もあるものです。
そうした時にも、グッと堪えるだけの器の大きさがあったと言えるかもしれません。
無関心でもある
器が大きいということは、すぐに怒らないなど、相手に必要以上にアクションを取らないこととも言えます。
それがグッと堪えている場合もあるでしょうが、それだけではありません。
そもそも、そのこと自体に無関心な場合もあるでしょう。
無関心というと、何だか冷たい感じがするかもしれませんが、相手に対してというよりも、対象となる一つの事象についてというのがポイントかなと。
前項で挙げた例でいえば、親が子供に対して無関心というわけではなく、ある時点で勉強していないという状態に無関心であるというところでしょうか。
ある時、何気なく子供の様子を見ていると、全然勉強していない。
そこから数日ぐらい様子を見ても、特に変わる様子はない。
そこで、しびれを切らして、口を出してしまう。
親として、気になることであれば、当然言うべきことであり、何ら間違っていないと私も思います。
それが子供のためを思ってであれば、尚更でしょう。
ただ、そのタイミングはあくまでこちらの感覚にあるもの。
夏休みがもう終わろうとしているのに、テスト前なのに・・・。
最もな理由があることもあるでしょう。
そうした事情を踏まえても、気にならないぐらいに無関心でいられることというのが、器が大きいに繋がるのかもしれません。
内心はハラハラしていても、無関心を装う。
それでもいいかもしれません。
そこには相手に対する揺らぎない信頼があるともいえます。
揺らぎそうになる信頼をグッと飲み込んでいけるぐらいの無関心というのもまた器が大きいと言えるのかなと。
真価を問われる時
極めて稀にですが、器が大きい、という主旨のことを言ってもらったことがあります。
本当に器が大きい人に申し訳ないと思いながら、何でそんなことを言ってもらえたのか疑問が湧いてきました。
許容量が大きい、無関心、という要素にピッタリ当てはまることはありません。
あまり怒らないイメージがあると言われることもありますが、ものすごく短気で頑固なところがあると自覚しています。
色んなことが気になって、無関心を装うことが大変なことが多々あります。
ただ、心当たりを一つ挙げるとすれば、そうした場面に遭遇する頻度が少なかったということでしょうか。
偶然の要素が大きいと思いますが、許容量の大きさを試されるような、自分にとってのマイナスなことというのが、頻発するわけでもなく、ここぞという場面でグッと堪えるということが出来たり。
子供の反抗期には、親がどれだけ受け入れられるかというのも大事だということを見聞きしたことがあります。
制限したり、否定したりすることで、反発心が生まれてしまうのであれば、それを包み込むぐらいに受け入れるというところでしょうか。
傍から見ればどうかは分かりませんが、今のところは激しい反抗期というのはなく過ごしていると思っています。
私がイメージしていた反抗期というのは、親と口を一切聞かない、言うことを全く聞かない、という極端なものではありますが。
それが良い悪いということではなく、今はそうした兆候はないぐらいの感覚です。
それは、私の許容量が大きいとか適度な無関心でいられているということではありません。
ただ、そうした場面に遭遇したのが少ないというもの。
だから、何かを受け入れ続けたという感覚がありません。
これからそうした場面が増えてきた時にこそ、真価が問われるのでしょう。
それを乗り越えた時には、器が大きいということを受け入れることが出来るかなと。
おわりに
器の大きさを気にしている時点で、土俵に立てていないのかもしれませんが、少しづつでもそうした人間に近付ければいいなと思っています。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
この記事を書いている人
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藤園 真樹(ふじぞの まさき)
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